「分節」という言葉を時々使うが、建築に関する文脈において、それは「一続きになっている全体をいくつかの部分に分けること」という国語辞典的意味よりむしろ、「結びつけること」の方に重きを置きながらの使用のように感じる。「分節」に相当する英語はarticulationであるが、英英辞典を見ると、「A jointing together or being jointed together. (接合すること、あるいは接合されること)The method or manner of jointing. (接合の手段や方法)」、もしくは解剖学的な「関節」、植物学的な「葉と茎のように分けられる部分の接合部」といったように「連結」がその意味の中心を成している。だからその意味では例えば空間が「きちんと分節されているか?」と問うとき、「きちんと分けられているか」というより「きちんと結びつけられているか」を問うていると言ってよい。篠原一男は「分割」を日本的、「連結」を西洋的手法だと明確化し、その相反を自身に内在させることによって生まれるダイナミズムを、設計のジェネレーターとしたと言えるが、「分節」=アーティキュレーションの語の意味の相違は「一続きになっている全体」を前提とするか「部分」を前提とするかによって生じ、そもそもは西洋的概念である「建築」の文脈でみれば部分を前提とした上での「連結」に重心が置かれるのは当然であろう。しかし、実は最も重要なのはその背反する2つの行為の同時性、相即性、つまり「分けながら結びつける」ということである。コーリン・ロウの「フェノメナルな透明性(虚の透明性)」とは「分けながら結びつける」ことの発見であった、と言えるかもしれない。それはそもそも身体が「隔てながら結びつける」両義的なものである、というワロン+メルロ=ポンティ的な現象学的知見と連動するものである。身体が「隔てながら結びつける」両義的なものであるように、言語もまた「隔てながら結びつける」ものである。実は先述の英英辞典においてarticulationの意味として最初に書かれているのは「The act of vocal expression(音声表現行為)」である。つぎに「発音行為、発音方法」「発音」と続き、それからようやく3番目として「接合すること」が登場する。ここでも書字文化のアジア圏にいるわれわれにはいささか違和感がある西洋の音声中心主義の反映をみることができるが、赤ん坊が生まれて最初にすることがアーティキュレーション(産声をあげる)である、と考えるなら、彼(彼女)がこれから、隔てながら結びつけるという「存在論的差異」を生きることへ向けての高らかな宣誓のように思えなくもない。それにしても「分節」には「分接」という漢字の方が適しているような気がする。
関連用語:
アーティキュレーション
透明性