建築学習 memo


  1. 環境デザイン演習[建築]デジタル教科書
  2. 池永 誠之
  3. 乾 陽亮
    1. 意識すること
    2. 豊田市美術館を訪れて
  4. 井上 晋一
  5. 植南 草一郎
  6. 小野 暁彦
  7. 小池 志保子
  8. 小杉 宰子
  9. 清水 愛子
  10. 竹内 正明
  11. 谷村 仰仕
  12. 富家 大器
  13. 野上 珠理
  14. 日高 奈々恵
  15. 山田 由希代

意識すること乾 陽亮:環境デザイン演習[建築]III-1,2添削担当/DDL HousingDesign担当


「シュレーディンガーの猫」というと、事実と観測者の関係を示すときによく引用される量子物理学者の言った有名なエピソードです。なにかと目にすることも多いエピソードだから、気になった方は少し調べるとすぐに見つかると思いますのでここでは詳記しませんが、つまりは観測者の目がないと事実は決定せず現象は記録されないということ。事実は我々が思っているよりもっと曖昧で混沌としているのです。
例えば夕方に流れるニュース番組。いつも不思議に思うのはネガティブなニュースがあまりに多いこと。実感として、僕の身の周りではそれほど不幸な出来事などないし、むしろ楽しいことの方が多い。でもニュースを見ていると世の中で起きていることのほとんどがネガティブなことのような気になってしまいます。ニュースに流れていることが世の中を端的に表しているとは到底思えません。国内全体を押し並べてみても、ネガティブなことが占める割合は僕が体験していることとそれほど変わりないと思います。しかしニュースではなぜこうもネガティブなことが世の中に蔓延しているように見えるのか。それはメディアの怠慢だと言ってしまっても良いかも知れないけど、事件は警察などの政府関係機関に集まりやすく、そこに記者(観測者)の目が集中しているのが原因なのでしょう。彼らの仕事は世の中の流れのようなものを我々に示すことが仕事だし、それも一つの観測点からみたことだから間違いとは言えません。でもたかが一つの観測点からみた世の中の一つの断面図に過ぎません。一つの断面図では基本的な構成が分かったつもりになりますが、そこに描かれている以外の部分は見えなくなることもあります。むしろそちらを想像する力がその断面図を見る人に求められるのでしょうけど、そんなことも断らずにメディアはどんどんと情報を流しています。情報の正確さや客観性を訴える記者はテレビでよく見かけますが、そもそも記者の立つ視点は限定されているように思います。
基本的に我々は、目の前にあるものですらそれが何か正確に掴めないでいるのです。もう少し踏み込んで言えば、そもそも正確なものなど何一つ存在していないと言えるでしょう。「シュレーディンガーの猫」が示すように、真実を探求し明確にしようと試みる科学の最先端の分野でも真実は明確でないということが言われているのです。

ある視点でものごとを判断するとそれから漏れてしまう部分があるということ。これは我々がモノのカタチを決定する時にも言えることです。モノのカタチを決定するということは、そのカタチで受け止められないあらゆる可能性を排除することです。そのプロジェクトで考えたり思いついたりすることを全部一つにまとめると、ふわふわとして捉えどころがありません。無論、設計者が考えることは最終的に現れる成果物よりずっと多いはずです。あるカタチを決定することは、その他の混沌として曖昧な部分を切り捨てることになります。こう言うと語弊があるかも知れませんが、デザインはそれらの可能性を捨てて限定することです。しかしその限定は、可能性に向けての展望であるべきで、拘束的な要件であってはならないものだと思います。
ですが、そうは言ってもモノのカタチを決めるということはその他の可能性を排除することに変わりはありません。その排除される可能性に目を向けると、僕はカタチを決定するということの恐さを感じます。だけど、そうすることで新しい可能性を生み出せることに喜びも感じられます。デザインとはその切り捨てるものと可能性への展望の両者を共に意識しながらカタチに責任を持つことなのだと思います。そして、その意識をより多くの領域で持つことが良いデザインなのだと思います。
我々は日常の中ではものごとに対して驚くほど無意識でいます。日々の中で一つ一つ意識できることを増やしていくことがその人の生活になること、それがデザインをすることなのだと思います。「センスが良い」というフレーズはよく聞くけれども、英語のsense本来の意味は「意識」に近いのですから。