『芸術(絵画)とは見えるものを再現するのではなく、眼に見えるようにすることだ』
パウル・クレー
「風景を発見する」ということは、一体どういったことであろうか・・・。
そもそも風景とは発見されうるものなのでろうか・・・。
私たちは日頃、TVや映画、写真集や雑誌、ポストカード、などなど様々なものから様々な風景を目にしている。すでに日常はフレーミングされた風景に溢れ、イメージがコード化されていく中で、風景を読み取る内面化の作業が衰えぎみになっているように思う。
刷り込まれた体験のままでは新しい空間を創出することは不可能であり、ある場所を訪れて、美しい景色だ、気持ちがいいとかそういった感情だけでなく、その場所のコンテクストを読む、或いは対象から相関する事柄を見る、といった踏み込んだ固有の視点が「風景を発見する」ということではないだろうか。
例えば・・・、
それまで批評として無視されてきた桂離宮を「建築」として評価したブルーノ・タウト、茶室を外部の視点で読み直した岡倉天心、日本画や漢字から日本を抽出したフェノロサ、長屋をデコンした安藤忠雄、などなど、彼らに共通するのは風景の形式を抽出し、読み直す作業だと言っていい。
このような先達の偉大な発見はできなくとも、仮に誰でも気付きうる小さな事柄にせよ、自身の身体を通じてざわめいた事柄を大事にして発見に至るというのは悦びに繋がるものである。
スケッチブックというのは、ただ美しく、かっこいいアングルで風景を切り取り、限りなく客観的に写生するだけでなく、対象を評価であれ批判であれ、思考するに値するものを観察する機会なのだと思う。それは有名建築や寺社のような大きな空間を訪れるのみならず、日常空間の中にあるどこにでもころがっているようなモノでも見る人によって様々な解釈があり、見方があり、思考することができる。
パウル・クレーに習って言えば、現実の可視的諸形像のなかに、現実に知覚された事柄から派生したイメージや理念[典型像(Vorbild)]を求め、対象の意味を結節させること[原型像(Urbild)]を獲得してゆくことであり、作品とはその過程そのものを実現していなくてはならない。「眼に見えるようにする」とは、クレーが重要視しているところの典型像を獲得するための比喩に他ならず、「眼は思考の変換器である」とタウトがクレーを引用して桂を称えた言葉そのものだとも言える。
毎月欠かさず山のように送られてくるテキスト課題のスケッチブックは、いつもやっとの思いで手をつけるのだが、そのような発見や思考の断片が見え、その人の考え方や見方を知ることができた時、嬉しくなって思わずほころんでしまい、だからいつもついあれもこれもと詰め込んだ添削になってしまう。