かつて、中学時代の頃、友人の誕生日にその当人から何故かプレゼントを渡された記憶がある。それは、アイドルなどの切り抜きを挟むようなトーメイな下敷きの中に、毛のようなものがきれいに真っ直ぐのばして挟まれていたのが、数枚レイヤー状になったものである。「これは、何?」と質問したところ、彼女は「それは、わたしの枝毛」だと言った。授業中や友達とおしゃべりしている時などひっきりなしに、その彼女は長いストレートの髪を手に持ち、枝毛を丹念に探し、枝毛退治をしていたのだ。その枝毛が挟まれてある下敷きに、わたしは意味を求めて「この代物は、何だ?」と聞いたのに対し、彼女は字義通り「枝毛」と答えたのである。彼女はまったくノンセンスで、わたしが見て単に笑うだろうと、この代物を製作したのに、わたしは彼女の枝毛と知って、頭の中がぶるっとしたのを覚えている。何故かといえば、その「枝毛のコンポジション」(わたしが後に名づけたのだが)は、非常に前衛的でカッコよく、とにかく単なる髪の毛ではなく、枝毛というのがとても衝撃だったし、愛があった。
そして、その日以来、その彼女を「先生」と呼ぶことになる。
わたしは、その「枝毛」を勝手に芸術作品として把え、(遊びではあったものの)意味を超えて(というかもともと作品として作られていないので意味はないけれど)人の頭の中を震わすような忘れられない体験である。
そのような体験があって今、建築の仕事をしているということは意識的にはあまり関係はないが、あながちそうでもなく、概念的な愉しみや意味を超えた言語が建築にも存在する以上、それを見つけようとし、到達したいと思っている。それは建築の魅力的な要素であり、なんらかの政治・社会的要請や縛りが美術作品よりもやや強い建築の中にこそ見出されるべき使命だとも考える。ただしそれは誤解を招いてはいけないが、署名のない何物からも自由なドローイングを描くとかとは無関係である。
足の親指の爪に関心を持ったバタイユや、とてもスローにパサージュを歩いたベンヤミンなど偉大な思想家は不可解な行動をとるが、なぞってみるとそのどれもが興味深く見えるから不思議である。観察/思索という点において考えてみると、枝毛というのは一種のカタルシスである。枝毛退治常習者にとっては存在悪としてありながらも、全部摘み取ってしまえば、探す愉しみがなくなってしまう、或いは摘み取る快感を失ってしまうという、どちらを取っても悲劇になる。摘み取られる悲劇があるのにもかかわらずしばらくするとまた毛の先端は裂けていく。枝毛を気にして見ていなかった自分がとても悔やまれる。彼女の日々の些細な関心が遊び半分とはいえ、カタチに残された「奇跡」に愛を感じ、「作品」として感じさせたのだろうか。未だに分からない。