私も含めて建築を志す方々の多くは大学へ来て初めて美しいプランを見、詳細を知る。美しいとは思うのだけれど、その生活像というのは観念では解っていても実態は解らない。それらの観念に適応するため、いままでに様々な生活像が模索され続け、カタカナルームをアレンジするだけで立ち上がっているようなものまである。プランニングが平面上の操作だけになってしまい、前提としての生活像が決まっていて、それに対して部屋を割り付けていくだけなら誰にでもできてしまう。今はそれを表層の問題や造形の問題、空間や形の問題に置き換えているかのようにも感じる。
宮脇檀は「住宅の場合は、人の生活が持っているプロポーションの様な物があって、そのプロポーションは絶対に狂わせてはいけないことで、それは平面図が一番良くわかる」と語っている。平面図で部屋の大きさのバランスが狂っていたり、長さが狂っていたりすると、見た瞬間、この家はおかしなものになってしまう。たとえば「リビングが25畳ぐらいあって、ダイニングが4畳半ということは考えられないわけで、この家の人たちはこんな生活がしたいから、時には大勢をよんで食事をすることがあるだろうから、そのためにはあんな装備が必要で、便所も標準サイズよりは大きめじゃないといけない」、とか。逆に小狭住居であれば「全てのモジュールから40ミリ削らないとうまい整合をもったプロポーションが生まれない」とか。これらのことをまず検討し、関係を崩さないように立方体の中に押し込める。こんなバカげた整合性が求められてもなおかつ、プロポーションは狂ってはいけないと言うことだろう。平面図が何故大事かと思うのは、狂わせてはいけないプロポーションの根本を問い直し、もう一度平面の中で生活を考える事が必要とも思えるし、それがエチケットでもあると感じたからかも。まずは、とっておきの居心地を見つけるカンを磨く必要がある。