たとえば「モノ」。
空間を読む「ものさし」には関係や論理といったコトにつながるものと、形や力につながるモノの二種類に大きく分けられます。空間を目で見る、手で触る、足で歩くといった方法で得られる体験の中でその場でわたしたちの心にまず働きかけてくるのは、その内のモノに関わる部分です。
分厚い石の壁に触って得られるその密実さ、強固さ、冷ややかさといった感触や、紙一枚の障子を引くことで得られるその軽さ、柔さ、ぬくもりといった感覚で織りなされた総体としてのテクスチャー(質感)と既知の石の重量や紙の薄さといった知識が心の中で合わさることで空間の意図が浮かび上がってくるのです。
しかし、そのようなモノから得る質感とか量感、あるいは美といったものは、整理をすればするほど最初の感動から遠のいていくのも事実です。かつて人は手の延長としての道具を介してモノと結ばれていましたが、空間の触感に関して言えば、そんな手でつくる快楽から遠のいてしまったわたしたちはむしろ、そういったモノ自身よりも、そのモノがそこに求められた理由を読み解いていくほうが空間を読む近道なのではないでしょうか。
モノの存在理由の他にもその表面の仕上げ、例えば艶のない鈍い仕上げと磨き上げたシャープな仕上げではそれの意味するところは異なるでしょうし、色(→いろどる、ぬる)にも意図があるはずです。そんな意図がわたしたちとモノを結んでいるのです。
そしてヘレン・ケラーが水に直接触ることで「水」という言葉の存在を発見したようにわたしたちもモノから空間を見出すことができるはずなのです。
京都市北区紫竹(写真:加藤聖子) |