たとえば「自然」。
ひとくちに自然といっても人為の反対語としてのといった大きい定義づけは保留するとして、狭い意味でも都市におけるひとの皮膚の延長にあるようなものから、砂漠の人を拒絶するような過酷なものまでその意味は広範囲にわたり、今日ではそのような地域レベルのみならず地球規模での自然をも視野に入れることをわたしたちは要求されています。
ではその自然はどこにあるのでしょうか。自然そのものは空間には収まらないし、わたしたちの身体は空間ではないならば、空間は両者の間に位置づけられるということになります。
言い換えるとわたしたちは「空間を通して自然を感じている」のです。例えば印象派の画家たちが光を描くことによって対象を捕らえ得たように、わたしたちは空間に投げ掛けられた光を通して自然を経験しているといえます。これらを概括すると「空間、あるいは人為のない自然はない」と考えられるのではないでしょうか。
逆に空間を目の前にしたときその空間は何を映し出そうとしているのか、自然の何をすくいとる器なのか、そんな視点から空間を読んでいくことで自然とその空間との関係が明らかになり、よってその空間での自然とわたしたちとの関係も見えてくるように思います。例えば建築家はよく空間を光を受ける器として考えますが、そこではさまざまなつくり手と光との関係の結び方が想定されているはずです。(→うつす、ともる、ほる、あける)
つくり手と自然との関係を映した空間の中でわたしたち読み手は自然と関わっている、つまり空間と作り手、読み手は自然を介してつながっているといえるでしょう。
写真:京都市左京区下鴨(写真:山崎清道)
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