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おみやげ話

四話。町を歩くを学問する

旅先におもむくと、わたしたちは、風景や町並みを観察し、物や人と出会うことになります。これを学術用語では「フィールドワーク」と呼んでいます。
フィールドワークには様々な行為が含まれます。インタビューや街頭アンケートもそうですが、定点観測や測量もフィールドワークです。屋外で学術的な活動をすれば大概フィールドワークと呼ばれるのです。そして、学術的であるかどうかは、本人の気の持ち様に依存していたりするものです。毎日通勤で使う電車の車窓から、ベランダに干してある洗濯物を数えて分類したら、それは立派なフィールドワークです。日々是フィールドワークと思えば、確かにその通りなのです。
フィールドワークは民族学や文化人類学で随分研ぎすまされ、社会学でも社会調査という形で蓄積がありますから、フィールドワークの仕方に関してはたくさんの良書がありますが、ここでは、『フィールドワーク 書を持って街へ出よう』(佐藤郁哉 新曜社)という本を手に取ることを勧めておきます。フィールドワークについて書きながら、フィールドワークに携帯できないような本が多い中、手軽に持ち歩けるのも魅力の一つです。
しかし、この本にも欠点があるといえばあります。それは、日本で行われてきたフィールドワークが、無視できないような大きな可能性を秘めているにも関わらず、日本のフィールドワークの歴史について詳しく述べられていないところです。そこで、海外の事例は佐藤さんの本に任せるとして、日本の事例について若干の補足をしておきましょう。
日本のフィールドワークとしてまず思い浮かぶのが民俗学です。民俗学は柳田國男によって創始されましたが、その方法論は『民間伝承論』や『郷土生活の研究法』(『柳田國男全集 8』筑摩書房)に収められています。おみやげについて深く研究していく中ではこれらの書物は必読になりますが、ここでは、民俗学が、昔話の収集だけではなく、広く物を見て解釈する学問であることだけ理解すれば良いでしょう。柳田の同時代を見る鋭い目は『明治大正史世相篇』(柳田國男 講談社)に反映されていますが、より高度なフィールドワーカーを目指す人、特に都市について研究を行う人は、いずれ参考にしなければならない本でしょう。
それよりも、さしあたり民俗学の、物を見る目と足を使うことの確かさに学びたければ、『民俗学の旅』(宮本常一 講談社)が先導役を果たしてくれるはずです。宮本は、学者でも何でもない自分の父親から、村や人を見るやり方を教わっているのですが、それをこの本に事細かに書いてくれています。宮本が父親から方法論を受け継いだように、今度はわたしたちが、しっかりと一字一句確認して、宮本から受け継ぐ番ではないでしょうか。
しかし、民俗学以上に私たち、おみやげ研究者が着目しなければいけないのが、今和次郎(こん わじろう)とその研究法です。今和次郎は「考現学」という学問の創始者として有名ですが、考古学が昔のことを物を頼りに知ろうとするのと同様に、現在のことを物を頼りに知ろうというので名付けられたのがこの考現学です。それだったら「考今学」ではないかという至極真っ当な批判もあったようですが、音の響きから考現学にしたようです。
後に今和次郎は柳田國男に破門されたと喧伝するのですが、そう本人が言う通りに、今和次郎は柳田國男の弟子でした。ですから民俗学の方法論を大いに受け継いでいるのですが、民俗学が物よりも言葉を重視したのに違和感を覚えて、考現学を提唱したようです。 今和次郎は東京美術学校の卒業生らしく、観察した結果を、文章だけでなく絵を使っても表現します。町中の人々の姿態から、茶碗の欠け方まで、写真や文章では表現できないことをスケッチが持つ表現力を最大限引き出して描き記しています。その観察眼の鋭さと表現力の豊かさは、後述する藤森照信が編集した『考現学入門』(今和次郎 筑摩書房)にて見ることができますし、今和次郎が何者であったかは『今和次郎—その考現学』(川添 登 筑摩書房)で知ることができます。
さて、今和次郎の考現学は、確かに見て面白く、楽しいのですが、何らかの結論を導いたり、何かを批判したり、産業を成り立たせるための学問ではなかったために、長らく専門家以外には忘れ去られていたのですが、現代芸術家の赤瀬川原平と建築史家の藤森照信が中心となってつくった路上観察学会によって再び一般に注目されるようになりました。その委細は『路上観察学入門』(赤瀬川 原平  筑摩書房)に詳しく収められています。
赤瀬川原平は、千円札を自分で包装紙として印刷して扇風機やらカバンやらを梱包し、おかげで紙幣偽造に問われて、被告席に立たされたこともある芸術家でしたが、あるとき路上に残された無用の長物を「トマソン」と名付け、町を歩くことを芸術活動に変えてしまいました。これも委細は『超芸術トマソン』(赤瀬川原平 筑摩書房)に収められていますので、ここでは詳しく述べませんが、関東大震災後の近代化が一段落したころの、前近代と近代、日本と西洋、都市と農村の衝突や矛盾に物からの視点で気がついた今和次郎と、高度経済成長が一段落したころの、ほころびや崩壊の始まりに、建物の異形さから気がついた赤瀬川が出会ったのは必然なのでしょう。
さて、赤瀬川と共に路上観察学会をおこした藤森照信には、『建築探偵の冒険〈東京篇〉』(藤森照信 筑摩書房)という本があります。藤森は近代建築史を学んでいるうちに、昔の資料に載っている住宅の跡地が今どうなっているのか気になりはじめ、自分の目で確認するために歩き始めました。その結果、意外なことに、戦前の有名住宅の多くが、そろそろ寿命になりそうながらまだ建っていることに気がついたのです。これもまた、フィールドワークの大切さを説く逸話ではあります。

三話。旅を学問する

おみやげを学問するには、旅をすることからはじまります。まず何よりも、おみやげを売っている現地に赴いて、土を踏みしめることなしに、おみやげを語ることは無理な話です。おみやげの学問は、まず旅から始まるのだということは、おさえておくべき基礎中の基礎でしょう。土を踏みしめて、土の臭いを嗅ぎ、土に根付いたおみやげを作ることが大切だといえるでしょう。
しかし、おみやげを知りに旅に出かけるにしても、楽しく良い旅をすることと、旅とは何かを考えることを、並行して行いたいものです。楽しい旅をするためには、『るるぶ』(JTB)や『まっぷる』(昭文社)はあった方がいいでしょうし、『Hanako』(マガジンハウス)『an an』(マガジンハウス)なんかの特集が役に立つかもしれません。その昔、『an an』や『non-no』(集英社)に影響され、「日本」らしさを求めて旅に出た「アンノン族」と呼ばれた若い女性たち(当時)が、京都にも大勢押し掛けて、たいそう迷惑がられたそうですが、「アンノン族」のバイブルも、そうそう馬鹿にしたものではありません。「アンノン族」以来、毎年どこかの雑誌で「京都特集」が組まれ、お互いに参照しつづけたために、蓄積は恐るべきものがあります。
それでも飽き足らない人は、「旅行業法取扱管理者」を目指して勉強を始めるという手だってあります。対象を知るために手段を選ばないことを「恥知らずの折衷主義」と称しますが、関わりを持っていれば、ひょんなことから啓示があるものです。京都だったら、通称「京都検定」という資格があって、『京都・観光文化検定試験—公式テキストブック』(森谷 尅久、京都商工会議所 淡交社)という教科書があります。
そして楽しい旅をしながらも、「旅とは何か」という問いも突き詰めていきましょう。旅というのは、「観光学」「ツーリズム」などという言い方もしますが、立派な学問の一領域です。「旅行」や「観光」はとても広い概念で、ともすれば移動する行為全てがその中に含まれてしまいます。勉強のために博物館や図書館に訪れるのも、あるいは距離的にどんなに近くとも、テーマパークやショッピングモールなど、日常とは異質な演出された空間に訪れることも、「旅行」や「観光」と捉えることが出来ます。新幹線のような長距離移動手段を通勤のために使っていれば、交通利用調査の統計には、当然「旅行者」やら「観光客」として表れてくるでしょう。近代のテクノロジーが、速度や距離の短縮を軸に発展してきた以上、わたしたちは一所にじっとして生きていることなど不可能で、常に「旅」をせざるを得ませんし、私たちの住んでいる消費社会が、見せることを中心に拡大してきた以上、私たちは常に「観光」しているのです。
そういう風に考えていくと、「旅」とか「観光」はとても身近な存在です。ひょっとしたらこの瞬間も「観光」をしているのかもしれないと、自らに問うのはとても意味のある疑問でしょう。その時に、観光産業とは何なのか、そこにどのような問題があるのかの道しるべを示してくれるものとして、『観光学入門—ポスト・マス・ツーリズムの観光学』(岡本 伸之編集 有斐閣)と、『観光人類学』(山下 晋司編集  新曜社)の二冊の本をあげておきます。観光が考えるに足る奥深い現象であることが良く分るでしょう。
また、私たちの近代的自我における主体的な経験として、「旅」や「観光」とは何なのかを考えるために、歴史的なアプローチをした本も紹介しておきます。まず、『トーマス・クックの旅—近代ツーリズムの誕生』(本城 靖久 講談社)ですが、これは近代旅行の父と呼ばれるトーマス・クックについて書かれた本で、同じ著者の『グランド・ツアー 英国貴族の放蕩修学旅行』(本城 靖久 中央公論社)と合わせて読むと、なぜヨーロッパで観光が発生したのかが良く分ります。
ついで、『鉄道旅行の歴史—十九世紀における空間と時間の工業化』(ヴォルフガング・シヴェルブシュ 法政大学出版局)ですが、これは鉄道以降の人たちが、それまでの人たちと、視覚的な存在としてどれだけ違ってしまったかを書いた本で、移動する経験の持つ意味が分ると思います。
最後に、『幻影の時代—マスコミが製造する事実』(D.J.ブーアスティン 東京創元社)ですが、この本は、書かれてからもうかなり時間が経っているにも関わらず、私たちの経験全てに対して、いまだに鋭い問を投げかけてきます。観光についてだけ書かれた本ではありませんが、逆にわたしたちの普段の行動のあらゆる事柄が、「観光」と親戚関係にあることが良く分ります。
おみやげを考える時に、「旅」や「観光」は避けて通れない重要なトピックです。特にブーアスティンの議論などを目にすると、おみやげを作ることは悪いことなのではないか、などといった考え方まで頭をもたげてきます。気がつかずに観光産業に悪い形で加担しないためにも、「旅」や「観光」とは何かについて、熟考する必要があるのです。

二話。土臭さを学問する

前回、「産」「学」だけでなく、「土」、つまり「土臭さ」の大切さを力説しましたが、しかし、その「土臭さ」とやらは何でしょう。
土臭さについては、『建築家なしの建築』(バーナード・ルドフスキー 鹿島出版会)という良書が、素晴らしい手ほどきをしてくれます。これは世界各地にある土着(ヴァナキュラー)な建物を紹介した本で、一昔前の日本の景色も紹介されています。世界各地の風景を撮ったものですが、不思議と同じような土の臭いがしてきます。ルドフスキーはこの本で、近代建築を批判するために、様々な国や民族が伝統的に保有している建造物が、いかに合理的で美しいかを丁寧に紹介しました。ルドフスキーはこの本の他にも、伝統的な工芸や衣装や習俗を紹介し、それと対置することによって、西洋近代社会の進む道に警鐘を鳴らしています。ルドフスキーは、人を抑圧しない社会の到来を心から望んだ人で、『建築家なしの建築』にも、そのヒューマニティが溢れています。
しかし、土臭いということ、土着的であるということ、あるいはその地の人々の生活に根付いているということは、伝統的な技法や習俗を踏襲することなのでしょうか。わたしたちは、確かに素っ気無い社会に住んでいます。それは戦後の高度経済成長の神話が作り出した「郊外」を中心とした社会で、その社会の成り立ちと特徴は、『「家族」と「幸福」の戦後史—郊外の夢と現実』(三浦展 講談社)に端的に描かれていますので、そちらに詳細はゆずりますが、そういった戦後の社会では、日本から伝統的なものが消えて久しく、日本人はあまりに伝統を重んじず、そのために世の中がおかしくなったと思う人もいるでしょう。
しかし、『ROADSIDE JAPAN—珍日本紀行 東日本編 西日本編』(都築響一 筑摩書房)という写真集は、伝統的であるということと、土着であるということは全然違うということを示してくれます。都築さんは、ルドフスキーのように伝統社会を礼讃することなく、土着な土臭いものを拾い上げています。その態度は、『TOKYO STYLE』(都築響一 筑摩書房)という写真集に、より良く表れています。東京近郊に住む、たくさんの若者の部屋の写真を掲載しただけのこの写真集は、若者たちが画一化されていながらも、そのなかで一所懸命、土に根を張ろうと頑張っている痕跡を見せてくれます。土ではなくてコンクリートかもしれませんが、根無し草やら、存在が希薄やら、そんな嘆きが嘘臭く聞こえてきます。宮崎勤事件以降、若者の部屋は常に犯罪や家庭崩壊と結び付けられて考察されてきましたが、都築さんは犯罪の巣窟として眼差しているわけでも、逆に過激ぶりを競わせて喜んでいるわけでもありません。都築さんはきっと、新しく芽生えはじめた土着性を暖かく見守っているのでしょう。
しかし、実は都築さんのように、町や家のなかの吹き溜まりのような、近代産業社会の管理が行き届いていない場所に目を向けることは、いわゆる「ポストモダン」の重要なテーマでした。おみやげの話から大きくはずれてしまうので詳しくは述べませんが、ポストモダンは『ラスベガス』(R.ヴェンチューリ  鹿島出版会)という本のなかで、ラスベガスという一地方都市を、いろんな角度から眺めることからはじまっています。ラスベガスは徹底的に消費し倒す町ですから、地に足をつけて何かを生み出すなんてことはないはずです。しかし、そんなところに芽生えてしまった土着性に、建築家たちは、未来への道を模索したのでした。ラスベガスは虚構の街でありながら、それゆえに合理性や機能性では割り切れない場所でありつづけています。何でも、合理性や機能性で押し切ろうとした近代の反省をそこに見い出しても不思議ではありません。
そして、同じようなことが、今、日本では秋葉原で起きていると、『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(森川嘉一郎 幻冬舎)は述べています。この本は「オタク文化」について書かれた本ですが、おたくたちがいかに自分たちを表象し、そしてそれが束になっていかに街を作っているかを書いた都市デザイン論でもあります。ロードサイドにある土臭さもあれば、秋葉原にある土臭さもあるということです。
ところで、森川さんは「ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展」の日本館での『おたく:人格=空間=都市』展(http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/)でコミッショナーをつとめましたが、都築さん同様に、おたくたちの部屋の写真を展示しています。今や部屋の内部の風景は、街の風景同様かそれ以上に、現代日本の文化を伝える上で、大切な要素になっているのでしょう。わたしたちの土着性を知る上でも、部屋のなかへと視線を向けることは大事なことなのです。

『おみやげを学問する』

一話。土産学

おみやげは、漢字で書くと「お土産」ですが、これを学問にするとなると「土産学」と名付けることになるのでしょうか。最近はどこの大学でも、地方自治体でも、「産学共同」やら「産学連携」などと看板を掲げ、産業と学問が手を携えて新しい日本を作っていこうなんてことを言っていますが、「土産学」には「産」と「学」に加えて「土」も顔を出してきます。ちょっと、あまりにもつまらない駄洒落ではありますが、「土」と「産」と「学」というのが、おみやげを研究していく上で、大切なことのように思いますし、同時に、「土」と「産」と「学」を心掛けることが、日本をこれ以上狭苦しく窮屈な国にしないで済むポイントのようにも思えます。
おみやげはもちろん商品ですから、産業であることは間違いないですし、その土地の歴史や社会事情を反映していますから、学問の対象でもあります。しかし、それだけ見ていては伝わってこない土臭さまで嗅ぎ分けないと、おみやげが分かったことにはならないというのが、「土」と「産」と「学」を考えるということです。
もちろん、「土」ばかりに目をとらわれずに、「産」が示している「○○をどう作るか」というとてもプラクティカルな問題関心や、「学」が示している「○○とは何か」というとてもラディカルな問題関心を持つことも大切です。具体的には、「どのようにおみやげを作るか(おみやげで儲けるか)」という問いと、「わたしたち(社会、人類)にとっておみやげとは何か」という問いになると思います。前者は「技術的」、後者は「哲学的」なんて言われ方をするかもしれませんが、大切なのは、そのどちらのスタンスも馬鹿にすることなく、バランスを保ちながら理解することです。わたしたちは、「哲学なき技術」も「技術なき哲学」もどちらも認める訳にはいきません。そしてその哲学や技術は、宙に浮いてない、しっかりと土に根をおろしたものでなければならないわけです。
机の上で考えること、歩いて目と足と耳で考えること、手を動かして作り出すこと、そして作ることによってまた考えること、これらをバランス良く行っていくのが、おみやげを学問することです。おみやげ思索者であることと、おみやげ観察者であることと、おみやげ制作者であることとを行ったり来たりして、おみやげについて深く考えをめぐらすことが大切です。
さて、わたしたちは、実践的学問としてのおみやげ学への長い道のりを歩み始めました。これから先、わたしたちは常に複眼的であることを心掛け、「おみやげを作ってこそのおみやげ学」であることを肝に命じたいと思います。

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