たとえば「スケール」。
すべてのものには大きさがあります。その大きさには標準があって、空間においては日本に伝わる尺のように人間の身体が基になっている場合が多い。柱と柱の間隔、扉の大きさ、天井の高さや部屋の広さなど古今東西様々なところに身体を見出すことができます。
そんな空間のスケールに欲望や権力、政治といった外部からの力が働いたときに、それは標準から外れていきました。外力によって巨大化したモニュメンタルな空間は歴史を顧みれば、古くはエジプトのピラミッドやギリシャ文明の神殿、新しくはヒトラーのベルリン計画など多くの具体例を挙げることができます。
しかし今日では、身体の尺度から離脱することで象徴性や権威を得ようとするこの手法は通用し難くなってきた、あるいは逆効果をもたらすようになってきたような気がします。というのも、生物としてのわたしたちの大きさこそ変わらないものの、身体のあらゆる機能が携帯電話やコンピューターなどミクロ、マクロの科学技術の進歩によって拡張されつつあるので社会的事象を生身の身体を基準とするスケールで表す意味が以前と比べて薄れてきているのです。
このことをある社会学者は「地球は縮まってひとつの村になる」と予言していましたが、社会的な意味での空間のスケールが失われて、それによる脅しや示威、喜びが得られなくなったいま、空間はそれらの束縛から離れた、空間自身のスケールを持つことができるのではないでしょうか。
京都市北区上賀茂(写真:加藤聖子) |