これまで述べてきたことをまとめると、空間は全てわたしたち個々のこころの中にあって、わたしたちはそれを創造するのではなく、自らの内に発見するのだといえます。
逆にわたしたちが自分で空間を組み立てる時には、わたしたちには全てがあるのだから、それらを普遍性を持つ方向へ開こうとする限り、わたしたちは自由だともいえるでしょう。空間構築のエネルギーとなるのは自身の経験に加えてその自由、言い換えれば『無意識』[古山、1994、150ページ]の欲望なのです。
自由とはいえ、わたしたちが実際に自ら建築を行おうとすると、これまでに述べてきたようなわたしたち自身の空間、ひいては建築への思いのほかにも構造や工法といった技術的な、あるいは費用や採算など経済的な、そして環境や歴史や文化といった社会的な要素も同時に考えなければなりません。
しかし、わたしたち自身がこの世界に在る以上、これらを含めたすべてはわたしたち自身をうつしたものだといえる。わたしたちの在る世界を映したわたし自身を写した空間がそこにでき、だからこそわたしたちは自ら創り出した空間、そして建築に責任を負わなければならないのです。
すべての空間はそれを生み出した者の投影だといえる、そしてこのことを生み出した者が自ら再確認して初めてそれは空間になる。追確認することで自らの行為が経験になるのです。
自らに向かって問いかけること、その試みを経験の中に後から見つけられるように位置付けること。ここで彼女が鏡を用いて創り出し、そして自らの手でフィルムの上に写しだすことで経験されたこの空間も、そういう意味において「空間」といえるのではないでしょうか。
京都市北区西賀茂(写真:加藤聖子) |