空間をいろいろな切り口から読もうとする様々な論理の根には読み手の意志がありました。その意志は納得できる説明を自らの内に求めようとするものでしたが、なぜその過程で「経験」を削いでいかねばならないのでしょうか。
わたしたちが自分で自分の顔を直接見ることができないように、わたしたちが自分自身を自らの論理で説明することはパラドックス(矛盾)につながります。自らに源をもつ『素朴な確信』や、あるいは『科学的学知』『神話的予見』[竹田、1989、79ページ]を含んだ経験を他者に説明しようとするには、視点をその経験の外側に置いてそこから眺めるか、あるいは神のような超越した存在を外側に想定する方法が一般的ですが、ここでは自らの経験のみを思考の出発点としている以上、このような視点は持ち得ません。
ここでは唯、自らの『類推や憶見』[竹田、1989、87ページ]に満ちた空間の経験を徹底的に掘り下げた意識の奥底にわたしたちが共有する空間があるはずだという確信を思考の拠り所としています。だからわたしたちは空間を共有するために自らの憶見や学知を削いでいこうとしているのです。
どこかで他者と何かを共有しているというわたしたちの直観を唯一の頼りとして、わたしたちは自らに向かっていくのです。
ただし経験の入り口は開かれていなければなりません。空間に無感動にならないように、思う心については温めておく、考えないでおくのがこの思考の方法といえるでしょう。
京都市左京区出町柳(写真:長谷川知美) |