今まで述べてきた「時間」や「自然」、「スケール」などの空間の『事実』[竹田、1989、59ページ]は、いわばわたしたちが『いまここで経験している』ことです。
一方、これから述べようとしている空間の『本質』[竹田、1989、59ページ]は言葉で記述される意味そのものを示すと考えられます。時間や自然といったことはその存在が誰にでも確信できるもの、つまり『事実』ですが『事実』には『本質』が必ず含まれているといえるのです。 というのも例えばいま、ここにある光は「光」という言葉で呼ばれ得るもので、その言葉によってわたしたちはそれを追確認できます。これが示すのはこの言葉によってわたしたちはある『事実』を共有できている訳で、そうならばこの言葉と『事実』は対になっている、つまり『事実』が存在する(と確信する)ならば、それと同時に『本質』も存在する(と確信し得る)、言い換えれば「意味」は「物」と同じように存在すると考えられるのです。
これまでにすくい取ってきた空間の『事実』の中からどのような空間の『本質』を抽出するか、このあとに触れる空間の「透明性」や「構造」といった既知の空間論は個々の意志から出発したまなざしを『事実』から『本質』へと、深くそして普遍性を持つ方向へと探っていった試みの成果だといえるでしょう。
京都市左京区若王子(写真:山崎清道) |