みなさん、こんにちは。業務担当非常勤講師の岩田です。春らしい日々が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
遅ればせながら、卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございます。コロナ禍という予想もしなかった出来事が起こった中、無事に卒業できたという感慨はひとしおだと思います。大学生活で学び、得たものはみなさんの人生の大きな財産となることでしょう。これからも是非、ご自身が関心をもつ歴史や歴史遺産について研究を続けてください。
また、新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。これからわくわくする知的体験がたくさん待っています。この「歴史遺産の部屋」ではみなさんの学習に役立つ情報も取り上げていきたいと思います。過去の情報も是非ご覧ください。
さて、京都でも桜が満開となり、場所によっては、葉桜になりつつあるところもあります。桜は、人との別れや出会いの季節、また新しい生活が始まる季節に満開となるので、特別な思い出と重ね合わせながら桜の花を観るという方も多いことでしょう。また、死生観を桜に結びつける考え方もあります。この日本人にこよなく愛されてきた桜は、古代からずっとそうだったというわけではありません。
日本古代史の研究家である吉田孝氏は、平安時代の国風文化を論じるにあたり、古代人の花に対する美意識の変化について言及しています。以下、吉田氏の説の紹介です。
日本の詩歌で梅が最初に登場するのは最古の漢詩集『懐風藻』(751年成立、作者不詳)です。中国から梅の木とともに、梅を詠む文化が日本に入ってきたことを示し、花の美しさをうたうこと自体、中国の詩文の影響のもとに始まったと考えられます。そして最古の和歌集『万葉集』(8世紀末、大伴家持編纂)では桜の歌が44首収められ、それに対し、梅の歌は118首と3倍近くもあります。
春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ(818)
山上憶良
(春になると最初に咲く庭の梅の花を、一人で眺めながら春の一日を
過ごすのだろうか、いやそのようなことはできない)
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(822)大伴旅人
(私の庭に梅の花が散っている。あたかも天から雪が流れ来るかのよ
うだ)
などの歌があります。7~8世紀に梅は急速に広がり、奈良時代の貴族は、中国風の梅を桜よりも愛したのです。
ところが、平安時代になると、中国原産の梅と日本列島に自生した植物である桜の地位はゆるやかに逆転します。弘仁3年(812)2月(太陽暦の4月上旬)には、嵯峨天皇が桜花の宴を開始し、神泉苑で花樹を観て詩文を作らせました。また、『古今和歌集』(10世紀前半成立、最初に作られた勅撰和歌集)には、梅の歌は29首に対し、桜の歌は53首収められ、梅と桜の比は『万葉集』から逆転します。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(53)在原業平
(この世の中にまったく桜の花がなかったならば、慌ただしく散るこ
ともなく春はのどかであろうに)
ことしより春しりそむる桜花ちるといふ事はならはざらなむ(49) 紀貫之
(今年はじめて春を知って花をつけた桜花よ、散るということは他の
桜に見習わないでほしいものである)
などの歌があります。梅は中国から導入され、奈良時代の貴族にとって中国の文化や教養のシンボルでした。しかし、平安時代になるとそれが変化します。日本固有の樹木である愛でるようになるのは、美意識が和風化したことを意味します。
花の美しさをうたうこと自体、中国の文化の影響があったというのは意外ですね。みなさんは梅と桜とどちらがお好きでしょうか?私は寒い時期、華やかに咲く梅を見ると、もう春が近いのだなと嬉しくなり、美しく咲く桜の花を見ると、生きていることを実感します。ということで両方好きです(ずるいですね)。
〈梅と桜に言及した吉田氏の本〉
吉田孝『日本の誕生』岩波新書、1997年
吉田孝『大系日本の歴史③ 古代国家の歩み』小学館、1991年、初出1988年