人はいつも重力から解き放たれて、鳥のように大空を飛ぶ夢を持ち続けてきた。
浮く。飛ぶ。漂う。
これらのことばのひびきに憧れを抱き続けてきたのである。
身のまわりには様々な飛ぶかたちをしたものがある。シャボン玉やタンポポの種子は軽く、空気中に漂うチリは小さく、人には感じられないような空気の粘性のため浮遊できる。飛行する蜘蛛はおしりから糸をだして飛ぶ。鳥や昆虫類は翼を持ち、羽ばたいて飛翔する。なかでも、アホウドリは上昇気流をとらえて、グライダーのようにいつまでも滞空できるし、大きな白鳥は、水面を蹴り、助走しなければ飛び立てない。飛行機と同じである。小さな鳥は重直離陸ができるし、ハチドリのようにホバリングできる鳥は、スケールで比較すると、昆虫に近い。魚類、は虫類、鳥類と進化したといわれるが、そのかたちで共通しているのは流線形で、流体中を移動する道具を持っていることだ。
人は、翼を鳥から学び、エンジンという人工的推力によって飛ぶことを可能にした。しかし、なにより苦心したのは安定して飛行することであった。その後、飛行機の発展が、爆弾を落とせるという事実によってもたらされたのは、人間的皮肉である。
重力に逆らって空中に浮かぶという仕掛けは、かたちとその機能において、ほとんど一点の曇りもなく、妥協の余地もないほどシビアなせめぎあいのかたちをもつ。しかし、人類は地上にへばりついて生きている動物であるがゆえに、いっそう漂白したり、自身が空を飛ぶ夢を見続けているのである。建築にあっても同様で、特に長い歴史上、重い石やレンガという素材から解き放たれた近代以降は、いっそう建築は軽く、浮遊し、地から解き放たれたいという表現は大きな役割をはたしてきた。
(上)レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプター
(中)パリ、ラ・ヴィレットのシアター
(下)池面に浮かんだ平等院鳳凰堂
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