未来。時間の流れの中で、一瞬たりとも同じではありえないということを私たちは知っている。そして今という瞬間の流れの中でそういう認識を持ちつつ、一方自己の過去から、いずれやってくる未来の死を俯瞰することすらできない現在性というものもある。閉塞した状況、光のない、未来のない、出口の見つからない終りなき日常性といった感覚は、現在性そのものに内在しているのであろう。
そして、それが常識的で、日常的なものであればあるほど、人は時に強烈な変身願望を持つ。昼と夜、生と死、静と動、失敗と成功といった日常的にチャンネルが切り替わるリズムの中で、突然、姿やかたちを変える、装う、化ける、化粧する、飾るといった言葉で、身や心や環境を劇的に変化させたいという願望を常に心の中に押しとどめている。それが、実は究極の美学への原動力になっているのではないだろうか。
かつて、ハレとケという言葉が明確に存在したように、冠婚葬祭といった非日常的な行事も、特別な料理、特別な衣装、特別な空間演出や儀式とともに、毎日の生活空間が突如すべて取りはらわれ、異質な時間がたちあらわれる中で、私たちを変身へと導いたのである。逆にいえば変身装置がこうしたかたちで日常のプログラムの中にもあったのである。そして、季節とともに行われている祭りや年中行事も、ハレとケの落差が大きいほど、際立った行事となっていった。各地で行われている祭りも、中には祭りの間じゅう無礼講で、ケンカによって血が流れるのもあたりまえの無制限のなんでもありの時空間であったといわれている。かつて、つらい労働のすき間にあったこういう祭りのエネルギーは、それが持つ日常的非日常性によって私たちが変身することを可能にし、夢や希望や鬱積を放出させたのである。
(上)パリのポンピドーセンター
(下)イタリア、シエナの祭-パリオ
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